なぜ祭り?

討議資料

オーバーエンダー なぜ、こんなにフェスティバルが増えているのか、なぜ毎年、新しいフェ スティバルができるのか。お金が減ると、逆にフェスティバルの数が増えるということは非常に 興味深いところです。

なぜそうなったかには当然の理由があります。社会の文化発展を考えた場合、資本主義 がますます強固になるほどリベラルになり、自分の資本を人類の資本として追求するようにな ります。そして社会は、宗教や伝統、価値観による統一性を失っていきます。その状況にお いて、フェスティバルはある種の補完になるわけです。一つの分野で失われているものを補 てんし、他の人と共通する価値を創り出します。小さな輪の中において、流動的な形ではあ りますが。

そうしたプロセスにおいて、フェスティバルは、生活に対する一時的な意識の表れです。 恒久的なものではないが、今現在、重要だというわけです。そういう感触が好まれているので しょう。はっきりと定義された感覚に癒されると言ったらよいでしょうか。 他方、フェスティバルには社会的ネットワークの精神を持ち合わせています。高いレベルの エキサイティングなことが起こるけれど、次の日にはもう終わっている。ですから、今の時代に おいて、フェスティバルは非常に良い手段であり、急速に変化する世の中で有効な手段で す。しかし、我々の祖先が過去にわりと簡単に発展できた政治的な立場・理想という ようなものは、今の時代で私たちにとってそう簡単には作れません。(時間の問題 で)新しい政策がその背後にあるのではないかと思います。新しい方策・指針・やり方 がその背後にあるのではないかと思います。そういうことで、フェスティバルは社会にとってよ り魅力的なものになっているのではないでしょうか。

ただ、フェスティバルの短所、リスクも考えなければいけません。政治家にとって、フェステ ィバルは簡単なツールです。創るのも、潰すのも簡単です。例えば、100 年の歴史を持つオ ーケストラや美術館を潰すのはなかなか難しいわけです。しかし、特に資本主義社会におい ては、政治家が「これはもう面白くない」と思えば、フェスティバルをつぶしてしまえばいいの です。これが、フェスティバルが持っている特徴であり、構造体としては非常に不安定で、危 険なものです。 

ベルリン芸術祭総裁として、一つ潰し、一つ新しいものを立ち上げるの は、自然な仕組みだと思います。ですが時には、危険だとも言えます。例えば、経済状況な どが原因で、フェスティバルを潰す決定を下した場合、文化的に受け継いできたものを潰し てしまう危険性があるからです。

ベルリンの壁が壊されたとき、数日、数週間にわたり、ドイツ各地で人々の志気が上がりま した。日常生活を超えた大きなものに触れたと感じたからです。優れたフェスティバルも似た ような効果を与えるのです。人々を一つにまとめ、我々が生きていく上で重要な、さらなるも のを実感させてくれる。そして、どこの店に行っても買うことができないような体験をすること ができる。そのような様々な感覚や体験は、自分自身を異なった観点から見つめさせます。 それを、税金を使って実現していく。

ドイツ人は、サッカーの世界チャンピオンになった時、ある意味で自分達自身が以前は恐 れていたこと、すなわち「ああ、自分はドイツ人なのだ」ということを、ナショナリズムや悪い意 味ではなく感じました。ブラント首相が 60 年代にポーランドで膝をつき、ドイツ人は戦争中に したことを心底悔いていると、世界中に伝わるような形で示しました。21 世紀初頭において、 ようやく我々自身も己のことを、ある意味では記憶を切り変えることができたのではないか。 そして民主主義国家社会として、悪しき時代に逆行する恐れに囚われることなく、新しい時 代を切り拓くことができたと。

ですから、日本で大々的なオリンピックを実現させるというのは、新たな世界の中において 自分達はどういうものなのかを実感できる機会だと思います。 

https://www.artscouncil-tokyo.jp/archive/tokyoconference2014/tokyo-conference2014_gijiroku.pdf